孤愁



SAUDADE

「・・・あんたも日本人やったら、これくらいのこと解るやろ。」「わたしは顔は日本人ですが、もう日本人ではありません。あなた、“ブラジル人”の気持解りますか。日系人は、遠く離れた日本、帰りたくても帰れない故郷、そしてそこに残してきた親兄弟、これらを想うとき“サウダージ”という言葉をつかいます。日本語の“望郷”ではありませんよ。解りますか?」
ブラジル駐在のときにはじめて聞いた言葉である。

新田次郎は、故国ポルトガルへの熱き思いにまみれながら、亡き妻おヨネの墓を守りつつ徳島の地で死んでいった孤高の文人モラエスをテーマに「“孤愁”−サウダーデ」を書いた。彼はいう。なぜ人は哀しみを誘うばかりのサウダーデを追い求めるのか。なぜ手放そうとせず、抱きしめたまま死んでゆくのであろう。生の軌跡そのものがサウダーデであり、生きる限り、必然的にそれを背負い引きずることになるのだろうか。
「白い花が咲いてた、ふるさとの遠い夢の日、さよならと言ったら、黙ってうつむいてたお下げ髪、かなしかったあの時の、あの白い花だよ」彼がこよなく愛し続けたた歌である。

五木寛之はこの言葉に“暗愁”なる訳をつける。「恨」(韓国)、「トスカ」(ロシア)と同じように、「心の中に横たわっている根本的な愁い」であり、また「どこからともなくやってくる、なぜということもなくあらわれる愁い」であるとも。
わたしは「この世の無常、思うに任せぬ人生を知る人が、なお、“人を恋うる”その心、哀しみ」と受けとめたい。これからも大切にしたい言葉である。